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ずっと読もうと思っていて読めずにいる本の話

第3回 2012.01 努力の果て『努力論』幸田露伴 堀江敏幸(小説家)

何もしないという哲学

夏目漱石の『それから』に登場する代助は、働きもせず結婚もせず、時々親から生活費をあたりまえのようにもらっているばかりなのに、書生や手伝いの婆やなども置いて暮らしている自身の、遊民と称されることもある身分について、少しも引け目を感じていない。なにをしたってお天道様と米の飯はついてまわるといった放蕩とはちがうけれど、あれやこれやと理屈を並べて周囲を煙に巻くところは、落語の登場人物と大差ないように見える。代助は「自己本来の活動を、自己本来の目的としていた」。彼自身の言い換えによれば、以下のようになる。

「歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。それ以外の目的を以て、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になる如く、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。従って自己全体の活動を挙げて、これを方便の具に使用するものは、自ら自己存在の目的を破壊したも同然である」(岩波文庫)。

何かの「ために」行動することが、彼には許しがたい。名利、あるいは功利につながってしまう要素を徹底的に排除していくと、社会生活など成り立たなくなる。にもかかわらず、食うために、養うためにという選択肢は彼には存在しないのだ。そんなわけで彼は働かない。働きたいから働くのであれば、働くことじたいが目的になるとは口が裂けても言わないあたりに、むしろ微笑ましささえ感じられる。

代助の論法は、ある意味で正しい。活動のすべてに目的や目標となるものを設定し、一時も無駄にせずに生きているような人々を前にすれば、だれだって暑苦しいからだ。目的を置くべき部分とそうでない部分をうまく共存させてはじめて「活動」が立ち上がるのであり、正と負の両面がなければ「世の中」はまわっていかない。おなじことが、読書にも言えるだろう。読みたいから読む。すると、読むことじたいが目的となる。それが最も正しい、純粋な喜びをもたらす唯一無二の方法であって、論評したり感想を述べたりすることを、もしくは読んだ冊数を競うことを前提として頁を繰っていたのでは、もはや「堕落」と言わざるをえないのである。

Photo by Aya Shirai