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ずっと読もうと思っていて読めずにいる本の話

第2回 2011.12 苦い思い出『音楽』三島由紀夫 本谷有希子(劇作家)

堕落と不純の葛藤

百年前の自己啓発。露伴ほどの人だから、無我夢中で書物の山に触れているうち、それが「おのずからなる」努力へと昇華されていったにちがいないし、こと学問に関するかぎり、学ぶ喜びに導かれて先へ先へと進んでいった人々の数は少なくない。この箇所に表面的にでも賛同した者は、やはり先の代助の理屈に強く反論できないだろう。では、露伴は努力について何を語り、何を述べているのか。もし、彼自身の膨大な仕事に匹敵する地平に喜びのレベルを設定していたとすると、私たちにはもう絶望しか残らない。幸田文の苦労をしのぶまでもなく、露伴の教えは、教えることじたいが「おのずからなる」身体反応だったから、頭で多少理解したつもりになっていても、身体がそれに連動しないかぎり、まったく空疎なものになってしまう。

でも、序くらいは、ちらりと覗いてみたい。こういう文章を書く「ために」という目的と言い訳があって、書き抜きをしたりするのは、むろん不純の極みだが、先の引用の手前の部分をこっそり参照すれば、こんなふうになっている。

「努力は好い。しかし人が努力するということは、人としてはなお不純である。自己に服せざるものが何処かに存するのを感じて居て、そして鉄鞭を以てこれを威圧しながら事に従うて居るの景象がある」

堕落といい不純といい、それだけでかなり「威圧」感の生じる言葉だ。本格的に読みはじめれば、所々、深く頭を垂れながら、自分自身の堕落と不純を意識しつづけることになって、「自ら自己存在の目的を破壊したも同然」の憂き目にあうだろう。それがいやだというわけではないし、さもしい現状の追認が耐えられないわけでもない。ただ、読もうとして読むことが拒まれている以上、その葛藤を遠ざけるには、読まないという選択肢しかないのである。だから私は『努力論』を読まない。読もうとしない。読まないよう努力する。そのような姿勢がすでに堕落であることを、百も承知のうえで。

Photo by Aya Shirai