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ずっと読もうと思っていて読めずにいる本の話

第12回 2012.012 カレー粉がない 『定本 言語にとって美とはなにか』吉本隆明 小池昌代(詩人)

いつか見た悪夢

若いころに何度か買った。買ったけれど、読んでいない。読み終えていないと書いたほうが正確かもしれない。二十年以上前の話だ。

他に考えられない、ぴしゃりとしたタイトル。長く本棚にはあった。いつか読もうとしたのだろう。地獄絵図みたいな、忘れられない装丁。何度か引っ越しをしているが、ついに現在の本棚から消えた。とすると、結局、処分したか、だれかにあげたのだ。

「読めなかった本」はあまりにたくさんある。迷っていたか、なぜか、最後に浮かんだのが、この本。読まなかった本、読めなかった本というのは、読んでしまった本のようには別れることができない。だから、意識の根っこのほうに、いつまでもひっかかっている。むしろ関係が切れず、ずっとつながっていると言えるのかもしれない。

わたしは時々、書評を書くが、そのせいで、本というのは、読んだ後に、それについて、感想なり、批判なりを書いていくものだという、拭い取れない強い習性がある。

だから読んでいない本について書くというのは、えっ、そんなことをしてもよいのか、そんなことができるのか、怖いような自由のなかに放り投げられた気持ちで、こうして書き始めた今も、まるで犯罪を犯す前のように、どきどきしている。何を恐れているのだろう。

それがテーマだというのに、読まずにその本を話題にするということに、罪の意識を感じるようなのだ。なんてことを書くと、いかにも本に対して真摯なようだが、少し違う。わたしの心にどうやら眠っているらしい恐怖心――自分が本を読まずに、書評を書いてしまうのではないか――に、今この経験が、触れてくるのだ、たぶん。

もちろん、それは、いつか見た悪夢であって、そんなことをしたことはないし、できるはずもない。能力的にも、倫理的にも。それでも読むという行為は不思議。誰にも見えない透明な行為であり、まぎれもない個人の経験である。たとえ同じ本を読んでも、まったく同じ経験がありえないように、まったく同じ感想もありえない。しかもその経験を通して、自分が何を本から抽出したのか、書いてみなければよくわからない。

 

その本について書くなら、最低、二度あるいは三度は読むべきだと、吉本隆明氏が、どこかに書いてはいなかったろうか? 

書評を書く際、いつも考える。たいていは、時間切れになってしまうのだが、わたしは大事な部分を読み落としているのではないだろうかと。本よりも、自分の表現意識に傾いていやしないか、つまり、自分が思うように、本をねじまげていないかという不安。そういう不安を消していくためには、心身を開いて、一行一行、はいつくばって読んでいくしかない。

『言語にとって美とはなにか』を、わたしは、読み飛ばさず、一行一行、しつこく読んでみるべきなのだ。若いころ、難しくて何だかちっともわからないと思ったのは、読み飛ばすような読み方をしたからではないか。

Photo by Aya Shirai