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英国ミステリー特集

英国ミステリーを彩る、魅力的なキャラクター

「最後の事件」で、宿敵のモリアーティ教授ともどもライヘンバッハの滝壷に呑みこまれてしまったかに思えたシャーロック・ホームズが、その3年後に「空き家の冒険」で再び読者の前に姿を現わしたとき、ビクトリア朝の読者たちは拍手喝采だったという。しかし彼らも、まさかこの名探偵がそれから100年以上も未来の21世紀に、相棒のワトスンを伴い復活して大活躍をするとは夢にも思わなかっただろう。
 そんなホームズの例をひくまでもなく、ミステリーの世界には作者の世を去った後も読者に愛され続けるシリーズ・キャラクターたちが少なくない。ここでは、そんな古今の名探偵たちについて、英国ミステリーを代表する4人のキャラクターを中心に、その紳士、淑女録を紹介してみよう。

キャラクターから知る、英国ミステリー

 シャーロック・ホームズが、ハドスン夫人の営むベイカーストリート221Bの下宿に、医師のワトスンとともに腰を落ちつけたのは、『緋色の研究』に取り組む1881年のこと。しかしホームズ最初の事件は、それから遡ること7年前、まだ大学在籍中に巻き込まれた「グロリア・スコット号事件」(『シャーロック・ホームズの思い出』所収)だった。以来ホームズは、「最後の挨拶」(『シャーロック・ホームズ最後の挨拶』)にいたるまで、40年間にわたってガス灯煙る霧のロンドンを主な舞台とする60件にもおよぶ難事件を解決した。
『シャーロック・ホームズの冒険』を含む5冊の短篇集と4つの長篇がその事件簿のすべてだが、そんな原典は読んでいなくても、グラナダテレビが製作した「シャーロック・ホームズの冒険」のジェレミー・ブレットや、BBC製作のTVドラマ「SHERLOCK(シャーロック)」のベネディクト・カンバーバッチ、ガイ・リッチー監督の映画「シャーロック・ホームズ」とその続篇のロバート・ダウニー・Jr.のシャーロック・ホームズならばよく知ってるよ、というファンは多いだろう。それぞれのホームズ像を描きながらも、ドイルの原作へのリスペクトを忘れていない映像作品の愛好者もまた、まぎれもないホームズ・ファンといえよう。

 明晰な頭脳に加えて、素人はだしのヴァイオリンとボクシングの腕前、さらには薬物依存の傾向や女性嫌いといった弱点まで、といったホームズの人物像を形成するキャラクターの数々は、世界中に数多いる“シャーロキアン”という好事家の研究対象にもなっているほどだが、ホームズの個性的なプロフィールは、ミステリーの世界におけるアマチュア探偵の雛形にもなっている。その影響は、大西洋を越えてアメリカへも及び、その毒舌と人の悪さという点から、ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』に登場するファイロ・ヴァンスにまで及んでいるという説もあるくらいだ。
 ただ、コナン・ドイルの原典にハードルの高さを感じる向きもあるだろう。そんなホームズ初級者には、ちょっと邪道かもしれないが、日本人作家のパスティーシュから入ることをお奨めしよう。ホームズとワトスンが現代を生きる女子だったらというイフから始まる高殿円の『シャーリー・ホームズと緋色の憂鬱』やBBCのドラマ版を素材にした北原尚彦の『ジョン、全裸連盟へ行く』は、肩の力を抜いてページをめくることができる、恰好のホームズ入門書でもある。

 ホームズと肩を並べる名探偵に、アガサ・クリスティーの生んだエルキュール・ポアロがいる。代表作といわれる『アクロイド殺し』や『ABC殺人事件』は、ミステリー史上の名作として今も色褪せていないし、最近も未発表のまま埋もれていた『ポアロとグリーンショアの阿房宮』が陽の目を見て、話題になったばかり。ポアロが自身の能力を自慢するセールスポイントの“灰色の脳細胞”を知らないミステリー・ファンはよもやいないだろう。
 ベルギー生まれのポアロは、警察の仕事をリタイアした後、第一次世界大戦が勃発するとイギリスへ亡命し、イングランドのエセックス州にある小さな田舎町へと落ち着く。そこで旧友のヘイスティングスと再会するが、そんな彼らの前に持ち上がったのが『スタイルズ荘の怪事件』だった。かくしてポアロの第二の人生、すなわち私立探偵の仕事がスタートするのである。
 ポアロの特徴はというと、なんといっても卵型の頭とワックスで固めた髭で、TVドラマ「名探偵ポワロ」のデヴィッド・スーシェや、『オリエント急行殺人事件』の映画化でのアルバート・フィニー、同じく『ナイルに死す』『白昼の悪魔』『死との約束』の映画化のピーター・ユスティノフなど、まさにそのイメージどおりのポアロ役は少なくないが、最近では三谷幸喜脚本のテレビドラマで狂言師の野村萬斎が思い切った役づくりで挑んだポアロが、なんとも強烈だった。
 そもそもクリスティーは、このベルギー人探偵にあまり愛着はなかったともいわれている。デビューした時のポアロがすでに60歳を過ぎていたことからも、レギュラー探偵に据えるつもりが作者になかったことは明らかだろう。第二次世界大戦中に書き上げ、死後の出版を予定していたポアロ最後の事件『カーテン』は、自身の生存中に繰り上げて出版された。ポアロの歴史にピリオドが打たれたというニュースが、衝撃とともに世界中を駈けめぐったのは、1975年のことだった。
 クリスティーの意向もあったのだろう、彼女の死後、著作権管理者によってポアロものの長篇贋作は封印され、クリスティーの死後初の続篇となる長篇『モノグラム殺人事件』が登場するまでには39年の歳月が流れた。作者のソフィー・ハナはイギリスの女性作家で、彼女の手になる新ポアロの物語は、最初の数章を読んだクリスティーの孫、マシューのお眼鏡にもかなったという。事件は『青列車の謎』と『邪悪の家』にはさまれ、これまで謎だった1920年代末から30年代にかけての4年間の空白期のもので、ポアロ・ファンならずとも気になる新作であることは間違いない。

 ポアロに冷たかった(?)とも言われる作者のクリスティーだが、もうひとりの看板探偵役であるセント・メアリ・ミード村で暮らす老嬢のジェーン・マープル(ミス・マープル)のことは、自身の祖母を慕うように思っていたという。それは、マープル最後の事件である『スリーピング・マーダー』が、最後の最後まで大切に残されていたことからも明らかだろう。同作が読者のもとに届けられたのは、作者が世を去った1976年のことだった。
 ミス・マープルというキャラクターは、ポアロのアンチテーゼとして作られたという説もあって、スノビッシュなところが鼻につく、ややエキセントリックなポアロに対し、マープルの穏やかでほのぼのした温かさはいかにも自然体で、なるほど好対照の人物像といえる。マープルをとりまく雰囲気の心地よさは、元祖コージー・ミステリーと呼ぶにふさわしい。
 ロンドン育ちで、その後ミドルシャーの田舎町セント・メアリ・ミード村に越してきたマープルが初登場する長篇は『牧師館の殺人』で、それを含めて1ダースの長篇と『火曜クラブ』という短篇集がある。その事件簿には、舞台劇風の『予告殺人』をはじめ、『書斎の死体』や『鏡は横にひび割れて』など佳作が目白押しで、その充実ぶりは”マープルものに外れなし”の折り紙つけたいほどである。
 クリスティーには、ポアロ、マープルの他にも、『NかMか』や『親指のうずき』で夫唱婦随のおしどり夫婦ぶりを発揮するトミーとタペンスや、不幸に苦しむ依頼人の自己救済を後押しする相談員が主人公の『パーカー・パイン登場』、タイトルどおりのミステリアスな人物が幻想ミステリーの世界を繰り広げる『謎のクィン氏』など、秀作が多い。クリスティーという作家にさらなる興味がわいた読者には、お役立ちのガイドブックとして、霜月蒼の『アガサ・クリスティー完全攻略』をお奨めしておきたい。

 これまで紹介したホームズ、ポアロ、マープルといった名探偵たちは、あくまでアマチュアまたは私立探偵だが、イギリスのミステリーにおける探偵役といえば、その多くは市民の安全を守る警察官である。P・D・ジェイムズのダルグリッシュ主任警部、レジナルド・ヒルのダルジール警視、イアン・ランキンのリーバス警部と、その例は枚挙にいとまがないが、ここでは代表格としてR・D・ウィングフィールドの作品に登場する警部のジャック・フロストを紹介しておきたい。
 警部が初登場となる『クリスマスのフロスト』は、こんなお話だ。ロンドン近郊の地方都市デントンの警察署は、クリスマスだというのに、日曜学校の帰り道に姿を消した少女をめぐっての事件や、深夜の銀行に金梃で押し入ろうとする輩をめぐって、大わらわ。同僚の警部が急病で倒れ、フロスト警部は刑事に昇進したばかりの部下クライヴとともに、事件解決に向けて奔走するがーー。
 下品で猥褻な、きわどいジョークを飛ばしながら、ひょうひょうと事件に取り組むフロストは、実は勲章を授けられたこともある優秀な警察官だが、書類仕事が嫌いで、上司からの命令など屁とも思わない。したがって署長の受けも最悪である。
 デビュー作をはじめとして、『フロスト日和』『夜のフロスト』『フロスト気質』、『冬のフロスト』の長篇、さらに中篇の「夜明けのフロスト」(同題のアンソロジー所収)と、シリーズでは、一貫していくつもの事件が並行し、錯綜する捜査の現場が描かれるが、名物警部のフロストは持ち前の押しの強さとしぶとさで、そのひとつひとつを着実に解決へと導いていく。ふるまいこそ下品だが、取り組んだ事件の顛末には、主人公の人間味あふれる優しさと心根の温かさが余韻として漂う。
 原作者のウィングフィールドは、放送作家の仕事をしながら、執筆開始から14年目に作家デビューを果たした苦労人で、日本にその作品が翻訳紹介されたのは、さらに10年後のことだった。死後に発表された遺作を含めて、フロスト・シリーズの長篇は全部で6篇ある。フロストのキャラクターを借用する形で、デヴィッド・ジェイソンが主役を演じるTVドラマの「フロスト警部」シリーズが製作され、人気を博したが、作者のウィングフィールドは小説がドラマから影響を受けることを危惧して、敢えて観ないようにしていたというエピソードが残っている。

探偵たちが歴史に与えた影響

プロフィール

三橋 曉(みつはし・あきら)

1955年東京生まれ。エンターテインメント文学や映画についての書評、コラムなどを活字媒体やウェブに執筆。レギュラーは『ミステリマガジン』『波』『新刊展望』など。そのほか、文庫解説など多数。

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